2012年8月27日月曜日

プーシキンの母親の祖父は黒人


スペードの女王・ベールキン物語 (岩波文庫)

近代ロシア文学の祖であるロシアの国民詩人アレクサンドル・プーシキンの母親の祖父は、アブラム・ペトロビッチ・ガンニバル(イブラーヒーム・ハンニバル)という黒人だったそうです。

出身はエチオピアともカメルーンとも言われていますが、西アフリカ出身の可能性が高いようで、確かに肌は黒かったようです。奴隷として最初はオスマントルコのスルタンに仕え、コンスタンチノープルでロシア大使に拉致されてロシア皇帝のものになり、フランスで教育を受ける傍らルイ15世の軍隊に軍人として参加したりした後、ロシアに「帰国」し、ピョートル大帝と娘のリザベータ女帝に仕え、貴族として農奴100人以上の所領を与えられていたということです。ペトロビッチという父称はもちろん、ガンニバルという姓もカルタゴのハンニバルにちなんで、自分で決めたようです。

当時のヨーロッパの宮廷では黒人の子供が珍重されたそうで、出世する者もあったようです。ガンニバルの子孫にはイギリスの貴族もいるそうで、ヨーロッパの貴族社会には黒人奴隷(奴隷といっても貴重品扱いですが)の血を引く人が少なくないようです。

「一滴原則」とか、「肌の色が絶対」とか、「白人以外は人間ではない」、といった今日も残る人種主義は、案外歴史が浅く、近代になってからアメリカあたりの野蛮な白人が発明して、アメリカから世界に広まったイデオロギーなのかもしれません。

「国語」が大事って本当なのか?


日本語の文法

(上のリンクのAmazonの本は、「共産党系の日本語文法」だそうです)。

私は、「国語」という言葉自体に抵抗があり、子供の頃から嫌いでした。でも、お勉強ができなかったわけでもありません。まったくのお馬鹿だったわけでもないのです。が、とにかく、「国語」は嫌いでした。

「国語」というものは、勉強のようなフリをしたイヤらしいお説教であり、良い子づくりの洗脳であって、それ自体何の価値もないものだ、という真理を、私は小さい頃から見抜いていました。まぁ、中学高校の国語教師のザマを見れば誰にでもわかるようなことですが、私は小学校の低学年の頃からウスウス気づいていました。

失われた10年などと言われて日本がダメだということがハッキリしてきた頃、日本人が漸く自信を失うようになって、いまさらのように、「祖国は国語だ」とか、「国語の勉強が何より大事だと説く数学者」とか、「人間の知的能力は国語力を超えられない」とか、そんな話がいっぱいでくるようになりました。一方でグローバリズムが唱えられ、英語の必要性が強調されるのに呼応して、「国語」の大事さが喚かれるようになってきました。人間が言葉で考える以上、思考力をつけるためには国語力を向上させなければならない、とか。

そもそも、私は、「人間は言葉で考える」という説に疑問があります。人間は言葉でしか考えることができず、一番得意な言葉は母語(「国語」)なのだから、その人の知的能力は国語能力の限界を超えることはできない、などという人もいますが、これにも私は疑問を感じます。

私は日本育ちの日本人であり、母語は日本語ですが、モノを考えるときに日本語で考えているとは言えません。もちろん、他の言語で考えているわけでもありません。

ひょっとすると、「考えることをしていない」のかも知れませんが、少なくとも話したり文章を書いたりするときには、何か考えているはずです。

私は、「言葉で考えられる」人がいたらスゴイなとさえ思います。

私が何か考えるときには、アメーバのようなものとか、積み木のようなものとか、抽象画を描くような事とか、そういう手段で考えていると感じます。

そして、話したり、文章を書いたりする時は、その時々に苦心して翻訳しています。アメーバや積み木や抽象画から、自然言語に翻訳している感じです。

長く外国をふらふらしてきて日本に帰ったら、本当に言葉が出ないことが多くなりました。頭が働かないわけでもないのですが、言葉が出ないことが多い。外国語ならOKというわけでもありません。

知っている人は知っているでしょうが、「株式日記」のTORAという人は、毎日毎日あれだけたくさんの本やブログなどを読み、自分でも熱心にブログ記事を書いていますが、日本語は無残なほどに下手糞で、何年たっても上手くなりません。毎日たくさん日本語を読みたくさん書いているにもかかわらずです。だからといって、あの人が馬鹿かというと、そりゃ池田信夫先生のような人から見れば大馬鹿でしょうが、頭が悪いというわけではないはずです。銀行員出身だそうですが、技術系の資格もたくさんもっていて、不動産を経営しているそうです。(最近、電気工事を業者にしてもらったのですが、自分でできたら良かったと思います)。

とにかく、国語力が知力の基本というのはウソだと思います。「国語」力などよりは、抽象画を描く力や、プラモデルや積み木の分野の力のほうが知力を支えているかも知れません。その可能性のほうが高いと思います。

とくに日本の学校の「国語」は、頭のためにならないと思います。

日本語文法一つとっても、「国文法」と、「日本語文法」とでは、まるで素性の違う別物だそうです。「国文法」は、古典文法を基本として現代国語を説明するという「立場」にたつ学科であり、そのうえ英文法など西洋語文法の概念をそのまま借用して説明するという淫売ぶりです。これに対して、「日本語文法」と言われるものは、主として外国人が日本語を学んだり教わったりするときのための説明のようです。

だいたいにおいて、学校で「国語」ができる子は、全般的な秀才の場合は別として、国語だけ変に飛び抜けているような子供は、根っからの馬鹿でしかも性格の悪い子と決まっています。

2012年8月26日日曜日

「脱亜」のためにはキリスト教は無効。白人との混血が有効だ


悪霊を追い出せ!―福音派の危機を克服するために    

「悪霊はいない」という考えは非聖書的であり、サタンの罠に見事にはまっている者の考えである。著者がインドネシア宣教師時代の豊富な体験をふまえ、実践と理論の両面から悪霊の追い出しをとらえる。


アジア的な後進性、アジア的陋習、アジア的蒙昧から脱却し、周囲のアジアの悪友たちとのシガラミを絶ち、アジアと縁を切る、という目的の為には、キリスト教受容が無効であることは明らかです。韓国がその先例であり、キリスト教を受け入れればマトモになれるということはまったくないという実例です。韓国のキリスト教は異端であるといわれるかも知れませんが、最初から異端だけが入っていったわけではないでしょう。韓国に布教し、韓国人に受け入れられるためには、歪曲が必要だったのであり、韓国的なキリスト教に変化するしかなかったということだと思います。

大体、アジアで布教しているキリスト教組織の関心事は、第一に、金儲け。第二に、白人至上主義の洗脳。および欧米的な生活様式や感性の普及。第三に、情報組織の構築(諜報組織による利用)です。キリスト教の布教は相当カネになるようです。現地からの集金は大したことはなくても、可哀想なやアジアの野蛮人をこんなに悔い改めさせて、洋服を着せて英会話も教えてあげています、と報告してやるだけで、大喜びで大金を寄付する金持ちが、欧米にはたくさんいるようです。大体、キリスト教と英語は本来何の関係もないのですが、アジアのほとんどの宣教組織や教会が英語教室を運営しているでしょう。キリスト教の布教が欧米の文化や生活様式の宣伝と一体になっている証拠であり、そういう場所では、「神様は、自らに似せて人間をお造りになった。(←この人間とは白人のこと)。その白人に奉仕させるために有色人種を作った」とか、現地の子供相手に抜け抜けと教えているのです。日本でも福音派系教会はやっているはずです。また、宣教という名目なら、どんな山奥の寒村にでも入って行くことができます。そこで小屋を立てたり空き家を借りたりして集会場を作り、居つくわけです。東南アジアなどのキリスト教宣教施設は、白人ミッショナリーによる現地児童の性的虐待の温床にもなっているのですが、ミッショナリーは白人のキリスト教徒でありさえすれば良く、いい加減なボランティア青年でも良いのです。目的は、金儲けと、白人至上主義教育および西洋式生活様式の普及と、ネットワークの構築なので、ミッショナリーが「宗教的に偉い」必要はまったくないのです。

要するに、キリスト教布教者にとっては、この三つの任務さえ果たせれば良いので、その現地実態が呪術的な邪教になっていても、この三つの実益さえ上がってくれば問題はないのです。

韓国のキリスト教が、欧米人ミッショナリーの指導を受け入れながらも、結果的に、禍々しい「韓国的」な呪術邪教になっている理由もここにあると思われます。

カトリックだったらもう少しましになるかも知れませんが、フィリピンでも、キリストを真似て十字架に手足を釘で打ち込んで磔にしてもらい陶酔に浸る、なんてお祭りが盛大に行われているようであり、その他キリスト教名目のいかがわしい呪術等が広く行われているようです。キリスト教が土着の呪術宗教を排除できているとはまったく言い難いでしょう。フィリピンは、アジア的な後進性の克服という点で、韓国やタイ等に比べればマシな国かもしれませんが、それは主として「英語の力」に負うところが大きいと思います。

そういうわけで、アジア的な後進性を克服しアジアの蒙昧な悪友と縁を切るために、キリスト教は役に立ちません。むしろ逆に、韓国と近づきになってしまいかねません。「脱亜」の目的のためには、白人との混血による遺伝子改良西洋語公用語化が有効だと思います。

「脱亜入欧党」を作って


「脱亜超欧」へ向けて―日本は欧米・アジアの限界をどう超えるか

ツイッターというのは、ツイッターに実名を申告する「実名サイト」だと思っている人が多いようですが、実際はまったくの匿名ミニブログです。私もいろんな名前でアカウントをいくつも持っています(一つしか使っていませんが)。フェイスブックでも、実名を晒すことが強制されているわけではなく、禁欲的な使い方をすれば完全匿名で使えます。ただ、多くの利用者の意識が違うので、顔写真や経歴や職業や居住地など具体的な自己紹介を書かないと、よほどすでにニックネームで売れている人でない限り、誰も相手にしてくれないだけです。また、私的な情報を出し合うことが奨励される仕組みになっているので(写真の関連付けなど)、フェイスブック上で友だちを作って交流しあう以上、個人情報を晒さずにはいられないでしょう。

ツイッターで私に対する@リプライというのがたまに入るのですが、大抵まったく知らない人間からの罵倒で、「お前、まだあの気違いブログやってるのかよ」みたいなのです。

だいたい、こんなブログを読む人の大部分は、共感よりも「反感」からここを見に来るのであり、その意味で「同レベルに落ちている人」です。だから、「相変わらずの気違いブログ」であることが「読者の期待」だと解せます。

そういうわけなので、このブログは今後とも「気違いブログ」を貫いていこうと思っています。

ネット右翼の中には、「韓国にも親日派がいて、戦前の日本の偉業を正当に評価してくれている」などという人達もいます。彼らの動機は、「戦前の日本の行為がいかに素晴らしかったか」を強調することであり、大日本帝国が欧米より「道徳的に優れていた」ことを主張することです。韓国の「親日派」は、同時に、というより「親日」である以上に、「反共派」であり、韓国が悪くなったのは北朝鮮や中国の共産主義の様々な影響によると強調します。つまり、韓国の親日派は、「日本憎悪よりも北朝鮮憎悪や(反動思想からくる)共産主義憎悪がまさっている」というだけであって、事大から日本に媚びているだけです。

こんな韓国の「親日派」にまたもや「足を取られて」喜んでいる一部のネット右翼やリアル右翼は、滑稽というしかありません。

私などは、韓国の「親日的保守思想」などよりは、「共産主義」の方が100倍もありがたい思想だと思っていますので、呉善花でも誰でもいいですが、親日派韓国人なんてものは、天皇と一緒に滅んで欲しいと思うのです。

最近の日韓関係の出来事の結果、日本が韓国と縁を切ることができるとすれば、大変喜ばしいことです。

韓国の「親日派」などは、むしろこっちから叩いてやるべきでしょう。彼らは、単に、田舎風の、儒教由来の、反動的な反共思想から、日本の保守派に事大して擦り寄ってきているだけなので、叩いてやればすぐに化けの皮が剥がれると思います。

「あなたたち韓国人は、火病という遺伝病がある通り(これは科学的な事実だそうです)、遺伝的に欠陥があるために社会も文化も劣っているのですから、あなたたち韓国人がいくら日本人になろうとしても無理で、日本の良いところをマネしようとしても無理です。せいぜい欧米に出て白人と混血することでも考えてはいかがでしょうか」と、「親日派」の韓国人たちに面と向かってハッキリ言ってやると良いと思います。

ただ、韓国人ほどではありませんが、遺伝的に劣っているのは日本人も同じなのです。韓国は、アジア的な蒙昧が日本よりも更に深刻であるというだけであり、それは日本にもある欠点であって、日本がすばらしいわけではありません。

日本がアジアの方に顔を向けている限り、日本のアジア的な蒙昧は啓かれることがなく、さらに悪いものになっていきます。

私は、「脱亜入欧」を基本思想とする新政党ができても良いと思います。単に欧米式のグローバリズムを受け入れるというだけでなく、「アジアと縁を切る」、特に文化的精神的にアジアと縁を切っていくことを打ち出すのです。

そして、人種改造(白人の血を導入する)と西洋語公用語化(英語、ロシア語等)をアジェンダとします。

韓国など(中国もたまにそうかも知れませんが)、「日本は欧米に媚びている」と見当違いな駄々をこねることがありますが、日本が「欧米になってしまえば」何も言えなくなります。すぐになれるわけではありませんが、「日本は白人国になるんだ」という「決意」を、具体的な形で表現すれば良いのです。日本人の半分くらいが白人混血になってしまえば、アジア的な発想に基づく苦情は何も言えなくなります。これは中国にも効果があります。

だから、手っ取り早いのが、ロシア人の導入なのです。

2012年8月23日木曜日

ロシアによる日本併合を希望する



高田屋嘉兵衛―只天下のためを存おり候 (ミネルヴァ日本評伝選)

反原発運動は、今やオカルト屋と愚民の野合のような様相を呈しているようです。反原発運動のリーダーは、ちょっと前は芸能人でしたが、今では刺青ネエちゃんだとか。それもカタカナ○子か○美だか知りませんが、反原発女にはやたら、「夫が白人」だけが売りの人が多いようです。

反原発系のオカルトの間で、「ロシアの脅威」が語られているようです。もともと韓国にシンパシーを持っている人たちで、日韓の間が韓国に不利な形で緊張してきたので、ロシアを持ちだして日本愚民の目を北にそらそうとしてるのかも知れません。日本人が愚民なのは確かにそのとおりなのですが。

私は、韓国とは戦争になれば面白いと思っています。理由はと言われると困りますが、私もあまりモノを考えない愚民の一人でありますので、「花火大会のようで面白そうだから」というに尽きます。対馬や北九州に住んでいる人は心配かもしれませんが、まぁ、大丈夫でしょう。

日本と韓国が戦争になると、その隙にロシアが日本に攻め込んでくる可能性が生じます。

しかし、2008年の紛争でロシア軍に先制攻撃をかけたグルジアでさえ(グルジア領南オセチアですが、実質的にロシア軍が支配していました)、ロシアに占領されていません。これはちょうど、日本の自衛隊が北方領土のロシア軍に戦争を仕掛けたようなものでしょう。

グルジアがイスラエルの分身のような国家だったからですが、日本は、アメリカにほとんど見捨てられているとはいえ、米軍が駐留している国家です。だから、ロシアが日本をどこまで占領できるかは難しい問題です。

とはいえ、アメリカ軍としては、日本を舞台にロシアと戦争するのはまっぴらでしょう。ロシアが本気でなだれ込んできたら、アメリカ軍はたぶん平然と逃げ出すと思います。

だから、ロシアには頑張って攻め込んできてもらう必要があります。

日本はいくら頑張っても「一流国家」になれませんでした。スポーツでも、金メダルを取るようになると、日本が金メダルを取れないようにルール改正がなされます。どうしてこうなってしまうのかといえば、日本が白人国家でないからにほかなりません。

ロシアも、西欧から見れば、半ばアジアのような評価でしょうが、それでも一応は白人国家であり、オリンピックでいくら金メダルをとっても妨害されることはありません。

日本はロシア兵にどんどん中まで入って来てもらい、国として、女性は強姦するだけで殺さないようにお願いし、日本に定住していただくのが良いと思います。

そりゃ、ロシアと混血したからといって白人国家になれません。せいぜいアザルバイジャンか、カザフスタンレベルの評価でしかないでしょう。

しかし、今まで日本人が苦労して積み上げたものと、一応は青い目のロシア人の血とが結びつくことで、「准白人」国家のブランドを手に入れることができると思います。

つまり、恥ずかしい「名誉白人」から、より実質的な「准白人国」へと昇格できるのです。

ロシア語は大変美しい言葉であり、日本の公用語にふさわしい言葉です。まぁ、実際喋れるようになるのは次の代からですが。今でもエストニアなどでは(ロシア人に良い感情はもっていないはずですが)外国人と見るとロシア語一本で話してくる(教養も無さそうな)一般の人が少なくないので(キオスクのオバサンとか)、日本人が外国語を公用語として受け入れることもさほど難しいことではないと思います。

ロシア軍が日本を攻めるときには、礼儀として、兵隊の容姿に気を配って欲しいと思います。金髪碧眼で背の高い美男子揃いなら、日本人は喜んで占領を受け入れるでしょう。間違っても朝鮮系ロシア人などに攻めさせないように、気をつけて欲しいと思います。

ロシアによる日本侵攻と占領を期待します。これは日本の閉塞を打開する決め手になります。日本にとっては、究極の「脱亜」方法です。これ以上の決定打はないでしょう。

2012年8月22日水曜日

愛子内親王劣勢!


愛子 芋25度 900ml

私は、天皇制廃止論者で、皇室はお茶のや歌舞伎の家元程度に残してやってもいいと思うのですが(半島出身権力者である以上、本来なら「元韓国大統領」の運命を甘受すべきなのですが、日本人の温情で)、このまま順調に存続した場合のことです。

現皇太子が天皇になり、やがて死去したとき、皇室典範の規定では、秋篠宮が(生きていれば)皇位を継承することになります。

ただ、皇室典範を改正して「女性天皇」を認めれば、愛子内親王が皇位を継承することになるでしょう。

ここまででは、「女系天皇」は問題になりません。

右の欄に作ったVoteで、「どちらか選ばなければならないとしたら?」というのは、「女性天皇を認めて愛子内親王即位を容認するかどうか」という選択です。

Aというのは、素行が悪いことで有名で、ロリコンだという噂もありましたが、ロリというよりペドだという噂もあるようですね。もし小学生レベルが好きなら炉というよりペかも知れません。

若い頃から「研究」と称してタイに入り浸っており、当然、腐敗しきったタイ王室の淫靡な深いところに迎えられているわけです。女の出ないタイの接待はありえないので、女も抱かせないなんて無礼な接遇はされていないはずですが、色々な意味でフツウの女じゃないのを提供される機会も相当あったと思われます。

ごく普通の趣味の貴賓でも、おそらくそういう打診はあるでしょう。特別な趣味とわかっている宮様なら、イロイロすごい接待を受けてきた可能性があります。

まぁ、そう疑われても仕方ないお方だと言われています。日本でも危ない噂がありました。さて、こういうお方が天ちゃんになっていいのかどうか。

私は、女性天皇のみならず女系天皇を容認し、愛子天皇には海外から皇配を迎えるのが良いと思います。

日本の国益を考えれば、欧米から白人皇配を迎えるべきです。欧州の王族なら、雅子も愚民も大喜びではないでしょうか。

そういうのが嫌だというなら、自ら率先して地位を放棄し(「人権」を盾にやるしかないですが)、京都のお茶の家元みたいになればいいと思います。

2012年8月20日月曜日

気違いは気違い


気違い部落周游紀行 (冨山房百科文庫 31)

気違いを気違いと言えない国は異常です。常識を自分で放棄した社会です。日本の言葉狩りはたくさんありますが、気違いという言葉が使えなくなったことは他に増して大きな意味をもつと思います。

気違いには代わりの言葉がありません。気違いは精神障害者のことでもない。気違いじみたことを平気でやるのは気違いです。気違いは一番普通に使われてきた穏健な言葉であるにもかかわらず、不透明な圧力によって弾圧されている。気違いに当たる普通の言葉が規制されている異常な国が、日本の他にあるでしょうか。

公共の場所で見ず知らずの他人に勝手な因縁をつけてくる者が、日本には少なくない。そういう者に「やめろ。気違い」というと、学校もろくに出ていない底辺のゴロツキのくせに、「差別用語だ」と喚き立てる。そして、周囲の群衆もゴロツキのイチャモンの方に雷同する。これが日本の現実です。

放送局が自社コードを決めるのは勝手ですが、それは法律ではない。当たり前のことです。一般市民が、昔から使われてきた普通の日本語を使えない理由はどこにもない。

放送局や大企業が「法律」のようになって、国民を文化的にも支配していることの象徴です。放送局ごときに文化的な支配を受けてしまう程度の「文化」しかないのが、日本という国です。

2012年8月17日金曜日

欧米で日本人が嘲笑され人種差別されるのは日本人自身が招いたこと


トランジスタセット/透明ケース付き

欧州全域で、アジア系やアジア系ハーフの子供が「チンチャンチョン」と囃し立てられたり、目を吊り上げる仕草で嘲笑されることが多いが、現地の大人に相談しても「ただの冗談だよ」と相手にしてくれない。しかし、これはただの冗談ではなく「イジメ」であり、欧州で批判されることのない人種差別的なイジメである。欧州には「アジア系は(人種差別的に)からかってもかまわない」という意識が定着している。というのがサンドラ・ヘフェリンさんの訴えでした。
http://kuantan-bin-ibrahim.blogspot.jp/2012/08/blog-post_10.html
http://kuantan-bin-ibrahim.blogspot.jp/2012/08/blog-post_7978.html

私は、このような状況を作ってきた真犯人は「日本人」ではないかと思っています。

欧州の現地人の大人(先生とかでしょうが)に相談しても相手にしてくれないということですが、日本人の大人はますます相手にしないでしょう。

サンドラ・ヘフェリンさんはあまり日本人的な容姿ではないハーフですが、純日本人の子供だったら、「そんな不平を言うな」と日本人の大人に叱られる可能性が高いと思います。

私が以前「日付のある紙片」というブログで、「白人」を批判したときには、「白人を批判した」という理由で日本人からひどく叩かれ、荒らされました。「白人を批判するのは朝鮮人だ」などという「朝鮮人認定」まで受けました。奴隷根性以外の何物でもないと思います。

しかし、こういう奴隷根性がすでに日本の文化になっています。戦後、「トランジスターの商人」などと言われた頃からずっと、欧米人に対し卑屈に構え、身を低くしてニタニタし、何を言われようと儲かりさえすれば良い、という考えでやってきたのが日本人です。

何を言われても、嘲笑されても誹謗中傷されても、「実さえ取れれば良い」という考えで、ずっと卑屈に構えてやってきた国が、いまになって「国家の品格」とか「愛国」などと言い出しても遅いのです。

日本人の間では「大人の対応」が賛美され、「大人になれ」という説教がまかり通ってきました。しかし、「大人」になって得られたものがあったでしょうか。結局は、「二流に甘んじる」ということです。「強い白人」にペコペコして生きるのを身上にしてきた以上、中国が強くなれば中国にぺこぺこする他ありません。中国(やその手下)に何を言われようと、「大人の対応」を貫くほかないでしょう。

日本は、日本人を人種差別(当然「アジア系差別」)する白人を批判すると、白人から反論されるよりも前に、他の日本人から非難される国なのです。

欧米等でアジア系が人種差別的され嘲笑される状況が続く限り、日本ブランドを含むアジア系ブランドが「一流ブランド」になることはありません。アジア系というだけで、「嘲笑されてもやむを得ない身分なり性質」だと捉えられる以上、アジア系ブランドに「高級感」が生まれる道理がありません。だから、日本の商品は安さと品質のバランスという「実用」で勝負するしかなく、結局は生活水準が低く労働力の安い中国や韓国に負けるしかありません。実用的な価値は、「品質かける安さ」なので、品質に多少の問題があっても安ければ選ばれます。高価でも支持を受けるためには高級ブランドになるしかありませんが、所詮「チンチャンチョンの商品」では、高級ブランドにはなり得ません。したがって、日本が今以上に豊かになるということも不可能です。今よりもっと貧しくなる可能性は高いと思います。

2012年8月16日木曜日

ロシアのメダリストは、日本のように芸能人扱いされることはないそうです


手旗 ロシア / 手旗 国旗 ロシア 世界 ミニ 国旗 手旗

在日ロシア人の女性が、日本のオリンピック報道やマスコミの日本人選手の扱いの異常性を、日本語ブログでサラッと指摘しています。

ロシアのオリンピック報道は、全体像を捉える客観的な報道に努めていて、「自国選手応援一色」となることはなく、自国選手がメダルを取ったからといって選手が芸能人のような扱いを受けたてあちこちの放送局に引っ張りだこになるということもないそうです。この点で、日本はロシアと非常に違っていたので驚いたようです。

日本にばかりいると、どうしても「日本で普通なことは世界でも普通に違いない」と思いこんでしまうものです。日本のマスコミが報じる外国のイメージを、そのまま受け取ってしまうことも多くなります。たいていの日本人は、「ロシアは国威発揚のためにスポーツをやっている」という日本の報道を信じていて、「ロシアのマスコミの報道などは日本よりはるかに自国選手中心に違いない」と思い込んでいのではないでしょうか。ソ連時代から国家の威信をかけてスポーツ選手を育成してきたことのは事実かも知れませんが、マスコミのスポーツ報道が「自国選手一色」かどうかは別の問題のようです。

実際、日本人のモノの感じ方や考え方は、かなり「ひとりよがり」なことが多く、とくに自己認識、自国認識は、多くの外国の人々から見てひどく偏っていることが多いのです。滑稽で醜い者になりたくなければ、このことをよく頭に入れておいたほうが良いと思います。(近隣のどこの国よりはマシだといった気休めには意味がありません。最底辺と比べても仕方ありません)。

ロシア駐在日記」より。

ロシアのメダリストは芸能人ではない

日本で暮らし始めて間もない頃、「日本人選手一色」という日本の報道の特徴をまだ知らなかったので、アトランタオリンピックで有森裕子さんが銅をとったときてっきり「金」かと思い込んでしまったことがあります。理由は、テレビで有森さんばかり映っていたからでした。自分の勘違いに気づくとともに、日本の報道にとってマラソンそのものはどうでもいいことがよくわかりました。ま、でも、自分の国の選手を応援したい気持ちはとてもよくわかります。

もう一つ、日本とロシアの報道で違うなと思っているのは、メダリストの扱いです。日本では、メダルをとった選手はあっちこっちのテレビ局から引っ張りだこになります。一方、ロシアでは選手を「芸能人」扱いにする動きはまったくなく、インタビューも少ないようです。例えば、今回ニジニ・ノヴゴロド出身のバドミントン選手たちはメダルをとりましたけれども、彼らの帰国シーンがテレビで映ることもなかったし、インタビューも公園を歩きながらという形でごくシンプルで落ち着いたものでした。

国が違えば色々違います。選手たちに対して親近感が湧くので、日本的なフィーバーはきらいではないんですけど、かといってオリンピックの全体像がよりつかみやすいロシアの放送も「大人向け」という感じで私は好きです。思うには、きっとスポーツに限らず、他のニュースなども、一か国の情報源しか持っていないと、かなり偏ったイメージが出来上がってしまう可能性がありますので、他国の放送は絶対見る価値が高いと思います

ロシア人も、当然自国選手の活躍には関心があり、自国選手を応援したい気持ちは持っているわけですが、だからといって、日本のように、報道機関が民衆の感情になし崩し的に迎合し、民衆の感情を「体現」しようとさえし、民衆がやりたいと思っていること(追っかけとか、プライバシーの詮索とか、泣かせてみたいとか)を民衆に代わって記者がやってみせる、ということまではしないのでしょう。おそらく、このような報道文化は、日本独特(または東アジア独特)のものだと思います。ロシアや欧米の報道機関は、報道機関としての一定のルールに従って仕事をしていて、スポーツだからといって民衆の感情そのままに迎合して動くわけではないのでしょう。

2012年8月13日月曜日

”ドイツの一般的な感覚として、「アジア系は、ちょっとぐらいからかってもいいんじゃないの?」という感覚がまかり通っているようです。”

タニア・ロバーツの僕のワイフはレンタル中〈デジタルリマスター版〉 [DVD]

サンドラ・ヘフェリンさんの記事をまた引用させてもらいます。ドイツでは、日本人をはじめとする東洋人に対する嫌がらせが、ほとんど批判されることもなくまかり通っているということです。
ちなみに、この「目をビーッと吊り上げる仕草」や Schlitzaugen という言葉を使用することについて、ドイツでは「これは『いじめ』ではなく『からかい』だ」「我々は冗談を言いたかっただけだ」(Wir wollten nur Spaß machen.)と言う人が少なくありません。イジメをした本人は問い詰められたら、もちろんそう言いますし、悲しいのは、いじめられた東洋人や東洋系の子供がドイツ人などの大人に相談をしても、同じ答えが返ってくることが多いです。“Die Kinder wollten nur Spaß machen.“(子供達は冗談を言いたかっただけよ)と。
それに比べ、ドイツの白人の子供が黒人の肌の色について何か言った場合は、激怒するドイツ人の大人が多いのですから、アジア系としてはなんだか理不尽な気がします。どうもドイツの一般的な感覚として、「アジア系は、ちょっとぐらいからかってもいいんじゃないの?」という感覚がまかり通っているようです
他の人種に対してよりも、アジア系に対する「からかい」はなんとなく許されてしまっている雰囲気がドイツにはあります。東洋人や東洋系がとても低く見られているのではないかと悲しいです。

そのため、ドイツ国内の小学校などの東洋人や東洋系の子供へのからかいやいじめは、多くの場面で「過小評価」されてしまう傾向にあります。「そんなのはたいした問題ではない」というわけです。

矢面に立たされている方々は大変だと思いますが、やむを得ない面もあります。

まず、ヨーロッパに来ているアジア系の人々、ヨーロッパで目立つ東アジア系の人々はどういう人かを考えてみると、やはり「アジア人妻」が多いのではないでしょうか。

ヨーロッパ人から見れば、日本人もタイ人も区別はつきません。アジア人妻がみな「タイ人妻」のように見られたとしても、仕方ありません。

ドイツ人にも多いのですが、本国で白人女性に相手にされない色々な欠点のある男性が、安易な女性を求めてタイをはじめとするアジアに大量にやってきます。背が低すぎたり、禿げて太っていたり、そのうえ高齢だったりしても、タイ人女性の恋人なら簡単に見つかります。結婚も簡単です。白人女性のようにプライドも高くなく、注文も少なく、ダラけた生活ができます。

多くのヨーロッパ人男性が、タイのバーやゴーゴーバーやカラオケのようなところで「女性」と知り合い、「結婚」までしてヨーロッパに連れて帰っているのです。タイでは、ゴーゴーバーはもとより、バーやカラオケにいる女性は、最底辺の女性であり、基本的に「売春婦」です。一時間いくらとか一回いくらでなく、一週間いくらとか一ヶ月いくらという期間契約で男性と同棲するのを本業のようにしている女性もたくさんいます。相手の白人男性には「ガールフレンド」と呼ばせていますが、実質的には売春です。これは、援助交際が売春である以上は、売春です。

アジアに来る欧米人男性は、売春婦のような女性とも簡単に結婚してしまうことが多いです。エキゾチシズムもあり、西洋の尺度が適用できない相手なので、本国では売春婦と結婚しない人でも、アジア人売春婦とはなんとなく結婚できてしまうようです。また、東南アジアには白人男性相手に期間契約売春する女性も多く、なんとか結婚にこぎつけようとします。そしてヨーロッパに連れ帰ってもらうことも多いのです。

売春婦のようなアジア人女性が白人とめでたく結婚して、ヨーロッパに連れ帰ってもらったとして、ヨーロッパの人々はそのアジア人女性をどう見るでしょうか。しかし、そのようなアジア人女性が多いのです。

このようなアジア人女性は、タイ人だけではなく、韓国人にも多いようですが、日本人にもいます。日本は比較的豊かなので、欧米人男性相手に売春まがいの交際をする人は、いまのところは少ない方でしょうが、一部の日本人女性は相当ハシタナイ交際をしているようです。もう少し貧しくなれば、多くの日本人女性が、欧米人相手に売春まがいの交際や、売春の延長のような結婚を、派手に展開するようになるはずです。(戦後に実例があります。鬼畜米英と叩きこまれて育ったはずの若い日本人女性たちが、敗戦一ヶ月後には、アメリカ兵に媚び、嬉々として身を任せるようになりました)。

このように、ヨーロッパ人から見ると、「アジア人は売春婦のようなもの」という印象が強いのはやむをえないところがあります。

アジア人には、欧米人に馬鹿にされても仕方のない背景がまとわりついているのです。

恩知らず

恩知らず

日本に帰国して感じることは、日本人には「恩知らず」が多いということです。外国と比べても日本人にはことのほか恩知らずが多いと思います。これは色々な場面で感じることです。

日本人が一番好きなのは「恩を着せる」ことであり、「恩恵を受ける」ことも大好きですが、恩を感じることは殆ど無いように見えます。

日本人が「恩」といえば、血縁、地縁、我が師の恩、くらいでしょう。しかし、日常生活で恩恵を受けていることに関してはまったく恩を感じていません。これでは人間的にダメであり、外国人から尊敬されることもないでしょう。

われわれの日常において、なしで済ますことのできない利便や物品を生み出した人々への感謝の気持ちを、日本人はまったく感じていないようです。まるで自分自身で創りだしたかのように思っています。

われわれがなしで済ますことのできない利便や物を創った人たちとは、言うまでもなく、取り替えの利く労働力のことではありません。そのアイデアを生み出した人のことであり、それを創意工夫によって創りだした人々です。

日本人はもっぱら「汗を流した」人々を尊敬すると言い、「汗を流し」て見せることを好み、何も新しいものを創りだしていないのに「汗を流したから」といって自慢しています。これは自爆攻撃を自慢しているのとあまり変わりがありません。日本人もこの世界に一端の貢献をてきたかのように日本人は思い込んでいますが、日本人が創りだしたものなどほとんど一つもないのです。

われわれの周りにある価値あるもの、それなしでは人間らしい健康で文化的な生活を送れないような施設や利便や物品は、ほとんど欧米のものであり、欧米人がその創意工夫によって生み出したものです。物やサービスに限らず、この文明社会のシステムも欧米人の創始になるものです。

たとえば、私達が日常なしで済ますことにできないものに電気があり、電気が止まれば死者が続出しますが、電気を生み出したのも欧米人です。

電気にはさまざまな発電方法がありますが、水力、風力、火力、原子力のいずれをとっても発電の方法は同じです。「磁石を回す」だけです。磁石を回すと電気が採れるという大発明をした人は、フレミングという欧米人です。

また、火力発電や原子力発電は蒸気機関によって磁石を回して発電しているのですが、蒸気機関を発明したのも欧米人です。ワットが有名ですが、本当はイギリスのニューコメンという人が発明したそうです。

一つ一つ上げていったらキリがありませんが、われわれの快適で豊かな生活、安全で健康的な生活は、すべて欧米人の創意工夫のお陰で生まれたものです。だから、これを享受する以上は、欧米人の恩を忘れてはならず、欧米への感謝の気持ちを常に持つべきだと思います。

我々にもっとも多く与えてくれているのが欧米なのです。欧米への感謝の気持をもつことは、霊的にも重要であると感じます。つまり、これだけ欧米の創意工夫と労苦のおかげを被っていながら、欧米への感謝の気持ちをもたず、それどころか毒づいているなら、必ずバチが当たるだろうと思われます。

日本人は感謝というと、血縁地縁のある者にしか感謝しませんが、そんなふうでは現世で良い報いはないでしょう。

欧米への感謝想起がぜひとも必要です。日本が上手く行かず災害ばかり起きるのは、日本人が欧米の恩を忘れて傲慢になっているからです。

日常生活の中で、暇を見つけて欧米に感謝の気持を捧げると、個人の生活も必ず良くなります。少しでも暇があるときには次のように唱えると良いでしょう。心を込めて唱和しましょう。

欧米様、ありがとうございます!
欧米様、ありがとうございます!
欧米様、ありがとうございます!


まぁ、日本人は恥知らずな愚民なので、100年か200年後には欧米様も神様にされて全国の「欧米神社」に祀られていることでしょう。

2012年8月12日日曜日

「生活」という言葉を廃止しよう


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「生活」という日本語は、いつから使われるようになったのでしょうか。私はこの言葉が、世の中をつまらなくしているような気がしてなりません。

言葉は現実を反映しているだけなので、言葉を変えて現実が変わるわけではない、というのは確かに一応もっともな理屈です。

しかし「生活」というような漠然とした言葉に関しては、必ずしもそうは言えないように思います。この言葉に対応する「現実」とはなんでしょうか。人間はみな生まれて代謝しながら生存を続け最後には必ず死にます。このプロセスに例外はありません。また、人が生きるということに、これ以上の限定も不可能だと思います。それ以上の細々とした意味ある事柄は、人それぞれにあまりにも多様だからです。

「生活」がくっついている言葉で、聞いて気分の良くなるような用語があるでしょうか。「野菜生活」はまあマシな方です。「生活保護」「生活協同組合」その他、どれも憂鬱になるような言葉ばかりです。

「生活協同組合」は、ロバート・オーウェンが創始した時は、「先駆者協同組合」といったそうです。戦前の日本では消費組合と言っていたようで、「学生消費組合」は一種の左翼活動になっていたようですが、「消費組合」の方が「生活協同組合」よりはなんぼかマシだと思います。そこには自由の感覚がありますが、「生活協同組合」という言葉には自由や創意の入る余地がないと思います。「先駆者」とは程遠い境遇です。「生活」という生活様式にはめ込まれて、監視しあい管理しあって「仲良く」暮らすという地獄を感じます。「生活」という言葉が、呪文になっているのだと思います。

「生活」という言葉を捨てていくことを提言したいと思います。生活など存在しません。ただ、一日一日を暮らしているだけです。暮らすとはつまり「やり過ごす」ということです。

消費税の「逆進性」って本当?


消費税は「弱者」にやさしい!

私は「経済学」はまったく興味がわかないので勉強したことがないのですが、よく言われる消費税の「逆進性」を論証したり否定したりする学問は「経済学」なんでしょうか?(どうやら「財政学」のようですが、財政学は経済学なのか。貧乏人の懐の心配までするのでしょうか)。

むかし民青の人に教えてもらった「消費税の逆進性」(貧乏人に厳しくなるという意味)って本当なのかな? と思ってグーグル検索をしてみましたが、「オーラの悪い」w感じのページばかり出てきたので見ないことにしました。

消費税が本当に貧乏人に厳しいのか、私はやっぱり疑問です。

要は、買わなければ税金を払わなくてすむのです。消費税は、個人の意思で納税を回避できる部分が非常に大きい税金だと思います。納税者の意思とは無関係に無理やり毟りとっていく他の税金に比べれば、よほど「弱者にやさしい」税金だと感じます。

日本の生活で貧乏人に一番必要なのは、「住」(電気、ガス、水道を含む)と「食」だと思います。率直に言えば、これらを除けばあとはほぼぜいたく品です。文化的な生活はインターネットと図書館があればできるでしょう。どんなに貧しい人の場合でも、「住」「食」「インターネット環境」の費用を支出したらもう本当にカツカツだということは、日本では現実にはないと思います。だから、これらに消費税が相当かかってきたとしても、それで生活できなくなることはないでしょう。国民年金だけで生活している単身の老人はちょっときついかも知れませんが、そういう人は生活保護を受ければ余裕です。またホームレスになれば消費税もほとんど払わなくてよくなります。これもひとつの選択であり、今日ではさほど恥ずかしいことでもないと思います。ホームレスになる原因は住宅を失うことですが、住宅費が高いというより、経済外的な理由によって部屋を借りられなくなる日本の慣習や制度に問題があります。つまりいったんホームレスになってしまうと、ほとんど場合、現金を稼いできても部屋はもう借りられません。しかしホームレスになることがもっとありふれたことになってくれば、このような状況も変わっていくと思います。これは歓迎すべき変化と言えます。

日本人は、貧しいと言われている人でも無駄なものをいっぱい買っています。その一つ一つが結構高いのです。みな無駄に良すぎるものを着ており、無駄に高いものを食べています。自動販売機がこんなにたくさんある国は他にないと思いますが、そこで売っている飲まなくても良い飲み物が150円もします。水筒を持ち歩けばすむのにそういう商品を買って飲む人が多いのです。150円というのは、マレーシアなら6リンギほどでしょう。結構な金額です。貧乏人に限って、飲む必要がなく身体にも悪い自販機のコーヒーやジュースを駅などで飲みながら、金が無い無いと嘆いているものではないでしょうか。いうまでもなく、酒を飲んだり煙草を吸う人が、税を憎む資格はありません。

要するに、日本では下層の人々でも無駄な高いものをたくさん買っているので、消費税を払うのが嫌なら「買わなければ良い」だけなのです。見栄のために買っているものも非常に多いと思います。

無理やり毟りとっていく所得税、相続税、固定資産税などを減税すれば、多少余裕のある層がまとまった買い物をするようになり消費税収も増えると思います。消費税を上げて所得税や資産課税を減らすのが良い政策だと感じます。

2012年8月11日土曜日

欧米様に跪拝せよ!

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前回前々回と欧米に対して非難がましく聞こえるような投稿をしたかもしれませんが、決して他意はありません。「合掌」で揶揄されることや「チンチョンチャン」と揶揄されることも、欧米に住んでいる白人ハーフの方々が矢面に立たされているのは気の毒であり問題ですが、根本的には日本人に非があることです。そう考えたほうが良いと思います。日本人がその程度の嫌がらせを受けるのは自業自得なのです。

アメリカにはイスラム教徒とシーク教徒の区別もつかない人も多く、シーク教寺院が襲われています。怒る以前にインド人もびっくりだったわけですが、日本人にも、インド人はみなシーク教徒のターバンを巻いていると思っている人は多いでしょう。日本人はまだこのような襲われ方をしないだけ恵まれています。

日本人の振る舞いが卑屈であることは確かです。ペコペコと頭を下げるのは責任逃れに見えますし、頭をペコペコ下げる一方で相手の目を見ようとしない。こちらが相手の目を見るとギョッとしたり、なんで見るんだと言う者さえいます。相手の目を見られないのは、自分の態度と本心とがかけ離れているからではないでしょうか。こういう不誠実さ、他者に対する人間としての敬意の欠缺が、日本人の特徴です。

外国ではいつも日本人同士で群がっている。外部の者を自分たちの集団の中には迎え入れようとしない。そして外面的には無闇に卑屈である。こういう振る舞いは不信感を招くのが当然です。日本人が群がるのは、これまでは嘲笑の対象だっただけかも知れませんが、今後は攻撃ないし襲撃のターゲットになるかもしれません。

欧米に多少の人種差別があるとしても、日本よりははるかにマシだと思います。

私は、ホテルの予約を全くしないで、ラトビア、エストニア、フィンランド、ハンガリー、フランスを旅行したことがありますが、どこでもなんとかなりました。不快な扱いもありませんでした(タイ人らしい東南アジア系の受付係に当たったパリのあるホテルを除いては)。

これに対して、英語しか話せない欧米人が単身で行き当たりばったりの日本旅行をしようとしたらどうなるでしょうか。あちこちで嫌な思いをするのではないでしょうか。

欧州で昼間営業している喫茶店に一見の日本人が入って困ることはないと思いますが、日本の田舎の喫茶店に欧米人ツーリストが飛び込んだらどうなるでしょうか。英語の看板がある喫茶店に安心して飛び込んだとしても、英語もまったく通じないし英語メニューさえない。注文もまともに取ってくれず、諦めて帰るのを待たれるかもしれません。日本語で注文しようとしてもまともに相手にしてもらえないかも知れません。

欧米と日本との、文明開化度の大きな落差を十分理解すべきです。同時に、日本人の「分際」をわきまえるべきです。「チンチョンチャン」は中国人を揶揄する言葉ですが、欧米人から見れば、ブランド物を身につけている日本人も「貧しい出稼ぎ中国人労働者」と同じだという意味です。教養もなく、国際語である英語さえ話せず、個人がなく、いつも仲間と群れていて、強い者にへつらいペコペコし、意味もなくニタニタし、相手の目を見て話すこともできないのが日本人であり、文明人の尺度からすれば「最底辺の中国人労働者」と同じです。

キリスト教白人の世界では遅れて近代化したロシアの19世紀の小説と、同じく遅れて近代化したといわれる日本の近代小説を比較してみれば、大人と子供くらいの違いがあることに気づくはずです。一番東洋に近いロシアでさえ、日本に比べればはるかにしっかりした文明基盤を持っていることがわかります。日本文学はどれをとっても、虚仮威しの言葉の羅列と論理になっていない見掛け倒しの屁理屈と感傷しかないニセモノばかりですが、ロシア文学を含む西洋の文学には本物の論理が張りめぐらされており、本物の感情があり、本物の精神の深みがあり、躾があります。これらはみな日本の文学には絶望的に欠けているものです。

私はキリスト教徒ではなく、将来キリスト教徒になる予定もまったくありませんが、日本人大衆はキリスト教に改宗したほうが良いと感じています。

天皇家が率先してキリスト教に改宗すべきでしょう。天皇家はこれまで二回宗教を変えているので(大和朝廷時代に仏教に改宗し明治維新後仏教を捨てて国家神道に改宗しています)、今後キリスト教に改宗することも容易なはずです。

日本は国家として、キリスト教の権威と西洋文明に恭順を示すのが良いと思います。そうすれば、「合掌ペコペコ」や「チンチョンチャン」で日本人が揶揄されることも少なくなり、在外日本人が襲撃される危険も小さくなります。

2012年8月10日金曜日

チン・チャン・チョン



ネトウヨ(ネット右翼)は、「白人様なら日本人とシナ人や朝鮮人とをちゃんと区別をしてくれるにちげえねえだ。白人様は日本人だけは可愛がってくださるだ」と固く信じているかもしれませんが、世界はそう甘くないようです。

西洋人から見れば、シナ人・朝鮮人どころか、日本人とフィリピン人やカンボジア人との区別もあまりつかないのが現実でしょう。西洋人にとっては、日本人もカンボジア人もそんなに異なった存在でありません。

私も、アルメニアやイランやハンガリーで、ベトナム人やフィリピン人に間違えられたことがあります。女だったらヤバイことも多々あるようですが、私の場合は特に「見下される」という感じではありませんでした。最近では東欧のベトナム人は現地で悪いイメージはあまりないのかもしれません。アルメニアのある保養施設(「ラーゲリ」と呼ばれていて食事をみんなで一緒に取るような宿)に滞在していた時には、食堂で同席したロシア語を話すオバサンに何故か「ベトナム人のドクトル」と決めつけられて、ロシア語でたっぷり話を聞かされ何もわからなかったこともありました。

在日白人の方々は、日本人に「ガイジン」と呼ばれるのがとても嫌だそうですが、欧州に暮らす日本(または東アジア系)の子供が白人の子供から「チンチャンチョン」と囃し立てられ虐められることは極めてありふれていて、それにもかかわらずマスコミで批判されることすらないようです。

この「チン・チャン・チョン」は、「東洋人はすべて中国人(みたいなもの)」というふうに括った上で、中国語を揶揄する表現で囃し立て嘲笑するイジメといえます。

それぞれ独自の言語と文化を持つ東洋人を「中国人」と括ってしまう事自体問題ですが、中国人がそれをされたとしても不愉快でしょう。

「チン・チャン・チョン」も「ガイジン、ガイジン」に劣らず差別的な不快な言辞です。

白人様がこれを「ガイジン」と一緒に問題にしてくれたら、日本人も少しは聞く耳をもつようになるかもしれません。


サンドラ・ヘフェリンさんの記事より。

ぶっちゃけハーフの人生はそんなに甘くありません。特に「子供ハーフ」や、思春期のハーフは大変です。理由は学校でハーフに対するイジメがあるから。日本の学校のイジメにも酷いものがありますが、まずはドイツの学校でのイジメの話をしたいと思います。
日本とドイツのハーフの子供がドイツの学校に通うと、「チン・チャン・チョン!」とはやしたてられたり、からかわれたりすることがあります。この「チン・チャン・チョン!」は、ハーフに限らず、ヨーロッパ、または白人の多い地域で子供時代を過ごした日本人、中国人、韓国人などその他のアジア人であれば必ず知っている言い草なのではないでしょうか。
でも、知らない方のために紹介すると、「チン・チャン・チョン」とは、要はアジアの言語をバカにした「からかい」なのです (私はこれをからかいではなく、イジメだと思っています)。ドイツ人の耳には、日本語や中国語、韓国語もベトナム語も全部、響きとして「チン・チャン・チョン」と聞こえることがあるようです。ドイツには「アジアの言葉は全て中国語。極東は全てがチンチャンチョン!」と思っている人が少なからずいます。つまり、「アジア人=全員中国人=全員チンチャンチョン」という構図が一部のドイツの人達の頭の中で出来上がっているのです。
ドイツのあまり教養の無い人々の間で広まった、この「ひやかし」「からかい」は、ドイツの子供たちの間でアッと言う間に広まり、彼らはアジア系の子を見つけては、この手の「はやしたて」をしてイジメています。ドイツ人の子供が東洋人の子供や東洋系ハーフの子供を「チン・チャン・チョーン!!! 中国語しゃべってみろー!! やーい。」とからかうイジメがドイツには少なからずあるわけです。
私も子供時代にもちろん言われた経験があります。私の場合は、容姿があまり日本人的ではなかったため、初対面でこれを言われる事はなかったのですが、母親が日本人だと分かった途端に、ドイツのイジメっ子集団に、「家ではどうせ、親とチン・チャン・チョーンと話してるんだろー!! やーいやーい、チンチャンチョン、チンチャンチョン、Tching Tschang Tschong、Ching Chang Chong!!!」と言われました。
ドイツ育ちのハーフの多くはこれを経験しています。それが深刻なイジメに発展するか、からかい程度で終わるかはケースバイケースで違いますが、アジア系の容姿をしていたり、アジア系の言葉を話している子供はこれを必ずと言っていいほど経験しています。言われた事の無い東洋人または東洋系ハーフなんているのでしょうか?
ちなみに、東洋系に対するこの「チン・チャン・チョン」というからかいは、ドイツだけではなく、ヨーロッパ全土にあるようです。私が日本に来てから友達になったイタリアと日本のハーフの人に「ドイツではアジア系は、チン・チャン・チョンとからかわれることがある」と話したら、彼女は「イタリアでは、チャン・チュン・チョンだったよ」と教えてくれました。ヨーロッパのみならず、例えばエジプトでもこの手の問題はあるみたいですし、どうやら全世界に広まっているようです。なんとか取り締まる方法はないのでしょうか。
私自身は、機会あればこの問題について発信していきたいと考え、先日ドイツの雑誌にて、この「チン・チャン・チョン問題」について話をさせていただきました (61ページの後ろから2列目の、下から8行目と、下から6行目のTsching Tschang Tschongと書かれている部分がそれです)。
http://www.young-germany.jp/article_667

私も「チンチョンチャンチョン」をやられた経験は、ネパールなどで何度もあります。民度の低い国なので仕方がないのですが、田舎の子供だけでなくカトマンドゥのツーリストの集まるタメル地区の制服を着た高校生にさえやられました。イランやアルメニアでも経験があります。子供が大人の旅行者に向かってもそんなふうにしているので、在留日本人の子供は大変だと思います。

2012年8月8日水曜日

素晴らしいブログ

ハーフが美人なんて妄想ですから! ! - 困った「純ジャパ」との闘いの日々 (中公新書ラクレ)

ホームページの一部で、ブログではないですが、この領域でこれほど率直で的確な記述は珍しいと思います。日独ハーフの女性が連載しているエッセイですが、大変説得力があります。

http://young-germany.jp/article_679

特にこのあたり、旅行者も経験することです。(私はヨーロッパでは、短期間しか滞在していないせいか経験がありませんが、ネパールやイランではよくありました)。

前回「チン・チャン・チョン問題」について書きました。この「チン・チャン・チョン問題」以外に、ドイツに住む日独ハーフや、日本人を含む東洋人が直面するもう一つの「からかい」があります。
それは…
「手を合わせてお辞儀」です。
ドイツ人が日本人にニヤニヤしながら近づいてきて、イキナリ手を合わせてお辞儀をする、という「からかい」です。
この「からかい」について、ドイツやヨーロッパの事情をあまり知らない日本人にお話しをすると、必ず「そのドイツ人は日本人とお友達になりたかっただけなんじゃないの?」と言われます。
その「お友達になりたかったんじゃないの?」を聞くたびに、私はなんて純粋なんだろう! と感激するのですが、残念ながら実際は「お友達になりたい」のではありません。
一部のドイツ人の目には、日本に限らずアジアの「お辞儀」そのものが「ペコペコしている」というふうにうつるようです。お辞儀自体をバカにしているのです。だから東洋人にニヤニヤしながら近づき「手を合わせてお辞儀」をするのです。「ほーら、アジア人ってみんなこうやってペコペコしてるんでしょ?」と言いたげに。
ドイツで暮らした事がある日本人は経験があるのではないでしょうか?
この「手を合わせてお辞儀」は、本来はタイ風の挨拶ですから、タイ人に対してかなり失礼だと思っています。でも日本人に対しても失礼だし、アジア全体に対して失礼ですよね。
この「手を合わせてお辞儀」、私には苦い思い出があります。それはギムナジウムでラテン語の先生と皆で修学旅行に出かけた時のこと。夜、ラテン語の先生とみんなでお酒を飲みながらおしゃべりをし、夏の夜を楽しんでいたのですが、そこでたまたま私が夏休みは日本に遊びに行く、という話をしました。すると、ほろ酔い気分になっていたラテン語の先生は「日本人っていまだに、こんな事やってるの?」とニヤニヤしながら言ったのです! もちろんお決まりの「手を合わせてお辞儀」をしながら。
私はその時、ラテン語は好きだったし、その先生の事もどちらかというと好きだったのですが、「ああ、これがこの先生の本音だったんだな」と思うと、一気に冷めました。
学校の先生で知識層と言われているラテン語の先生がこの手のイジメを平気でしちゃうんですから、(一部の) ドイツ人の東洋人蔑視はもしかしたらかなり根が深い問題なのかもしれません。実際の暴力ではなくても、こういった細かいところでの、東洋人をバカにしたような「からかい」がまかり通っているのは悲しいことですね。
「気にすることないよ」で片付けちゃうのは簡単だけれど、気長にこれからも訴えかけていきたいと思っています。

http://young-germany.jp/article_679

日本の挨拶は「合掌」ではないことを、はっきりと伝えよう。
http://kuantan-bin-ibrahim.blogspot.jp/2010/05/blog-post_2283.html

松坂に合掌の挨拶をするアメリカ人たち
http://kuantan.bo.lt/gasshou_hizukenoarushihen

「8月12日予言」が当たるとマズイですね



インターネットに書き込む人が多くなり、普通の人の本音が表に出てくるようになって、日本人がいかに迷信深い、オカルト好きな未開な種族であるかを、改めて認識せざるを得なくなっています。ツイッターもブログの世界も、自称霊能者またはそれらしく匂わせる者であふれているではないですか?

キリスト教の世界なら、オカルトもそれなりに筋が通っているのでしょう。なにしろ彼ら西洋人は論理狂なので、言葉の上でも明らかに破綻したような理屈はなかなか通りません。

ところが、日本人の場合は、理屈が明らかに破綻していても平然と教祖についていきます。教祖がもっともらしい断片的な理屈を垂れ、信者はそれでますます教祖を尊敬し崇めるのですが、昨日の理屈と今日の理屈とでは明らかに矛盾している。信者はそれに気づいていても、それをおかしいと思わずついていく。

「絶対矛盾の自己統一だ」などといってすべてぶち壊すことが、知的で立派なことであると固く信じてしまうような「反理性」愛好の土壌が、日本人の土台にあるようです。

たとえば、「あの世には時間はない」と昨日言った人が、今日は「輪廻転生」を説く。これを平気で受け入れるのが日本人。

なるほど、「時間」は物質が運動していることなのですから、この世の「存在」を前提にしており、それを超越した世界にはこの世の時間はないと言う理屈なら理解できます。たとえば、2000年前に死んだ人も今死んだ人も2000年後に死ぬ人も、皆同じレベルで神の前に引き出されて審判を受ける、という理屈は理解可能だと思います。(2000年前に死んだ人も、他の人が死ぬのをどこかで待っているわけではないという意味で)。

しかし、この世の時間を前提にして、その枠に従って、魂が「輪廻転生」しているというのは、上の理屈とは相容れないし、まるで荒唐無稽です。時間は物質(この世の存在)の運動なのですから、物質でない魂がこの世の時間の枠の中に拘束されているというのは変な話です。死んで別次元に行って戻ってくるというなら、この世の「過去」に転生してもよさそうなものです。それではこの世が成り立たなくなるのでそういうことはないことにしているのですが、都合の良い話です。だいたい、地球の人口は爆発的に増えているのですが、どこから輪廻してきたのでしょうか。特別なミッションを帯びて宇宙の果てから輪廻してきた人間もいれば、豚が善行を積んでようやく成り上がったような人間がいるということでしょうか。オカルト教祖たちはそれに近いことを信じていそうですが。

お盆には先祖の魂があの世から返ってくるといって墓参りをしながら、そこで坊主に輪廻転生の話を聞いても何にも矛盾を感じない、というのが日本人です。先祖の魂はどこかで分裂しているのかもしれませんが、日本人の精神も分裂していそうです。

「8月12日大地震予言」の犯人が逃走しようとしてるようだが
http://kuantan-bin-ibrahim.blogspot.jp/2011/08/blog-post_09.html

こういうブログが去年の今頃もてはやされていましたが、万一少しでもこれが当たってしまうと、日本人の精神は完全に崩壊してしまうと思います。「一年遅れ」くらいは日本人の反理性情動の前にはどうでもいいことになるでしょう。

M9の東北大地震が起きて以降、あまり大きな余震がまだ起きていないので、遠くない将来M8くらいの地震が日本のどこかに起きる可能性はあると思います。だから、今日起きる、今日の「体感」はすごい、と毎日言っていればいつか必ず当たります。

「予言」が仮にまぐれで当たっても、「インチキはインチキだ」と判断できる揺るがぬ理性をもつ必要があります。

唯物論でも唯一神論でもいいと思いますが、とにかく、多神教、自然崇拝、偶像崇拝、太陽崇拝、天皇崇拝などの邪な宗教感情を断固として排除することが、日本人の第一の精神的課題だと私は信じています。これができない限り日本はダメだと思います。

2012年8月3日金曜日

「権利能力」について。自由と平等は不可分


新訂 民法総則 (民法講義 1)

こういうテーマはもっとちゃんと勉強して書くべきなのですが、これから考えていきたいという意味でメモです。

近年、自由主義が話題になることが多く、「自由と平等は矛盾するに決まっている」と思い込んでいる人をよく見かけます。しかし、それは自由に対する考えも平等に対する考えも、浅いからであり、自由と平等は不可分であると私は思います。

自由を認めた結果、「多く所有する者」と「少なく所有する者」の格差がでてきたのだから、自由は平等に矛盾すると言うでしょうか。

しかし、どんなに「少なく所有する者」であっても、どんなにすっからかんであっても、モノを所有する資格がないわけではありません。何かは必ず所有しており、その所有権は億万長者が名画や超高価なダイヤモンドや大邸宅を所有する所有権と同じ所有権であり、所有権の性質は違いません。あなたがどんなにすっからかんでも、あなたが着ているシャツは、それが仮に借り物であったとしても、いまはいているパンツはあなたが所有しているでしょう。その所有権の性質は、億万長者が何億もするダイヤを所有する所有権と同じなのです。

当たり前のことだと思うかも知れませんが、それが決してそうではないのです。

大部分の人間が「モノを所有する資格」を持たなかった時代のほうが長いのです。

権利能力とは、「権利の主体となりうる地位」のことです。「すべての自然人、すなわちすべての生きている人は、平等の権利能力を有する。この原則が認められるまでには、長い歴史を経た。」(我妻栄「民法総則」)。

この権利能力が平等に認められるまでは、いったん誰かの人的な支配関係に落ちた人は(殆どの人は)いくら「豊か」であってもその関係から自由にはなれず、孫子の代まで自由になれなかったのです。誰かが土地を譲渡してくれたとしても、その土地を自分の所有地として登記することはできません。権利能力がないからです。勤労と節約によって金貨を貯蓄していたとしても、その金貨は自分の所有物ではありません。権利能力がないからです。

私が所有権を最も重要な権利だと考えるのは、所有権において初めて、人間が「権利」(人権)というものに出会ったと言えると思うからです。

所有権とは、物に対する全面的な支配権(特定物を自由に使用、収益、処分する排他的な権利)であり、人は所有権の観念を通じて初めて「自由」の意味を知ったといえます。

確かに、人間は昔から「モノをもっていた」とはいえますが、事実上もっていただけで、権利としてもっていたわけではありません。「いかなる他人をも排除し自由に支配する理がある」という形でもっていたわけではありません。(食べてしまえば絶対に自分のものだと言うことはできますが、その食い物を吸収した自分の身体もヘタすればモノとして処分されるかもしれなかったのです。「権利の主体となる地位」をもたなかったからです。人身の自由も、自己の身体への所有権として生まれました)。

所有権の観念をおろそかにする人は、権利(人権)というものをおろそかにする人だと思います。

現代の人権論では、「精神的な自由権」とくに表現の自由が最も重要なものとして厳格に保障されますが、これは主として、民主制のシステムとの関係で要求されるようになったことです。

思想の自由や言論の自由は、事実なのか権利なのか曖昧なところがあります。古代のどんな奴隷でも、内心の自由がなかったわけではなく、またお喋りくらいはしていたのです。これらから「権利」の観念が生まれてくることは、難しいと思います。

しかし、所有権はもっと抽象的なものです。モノをいくら与えられても、権利能力のない者はその所有権を取得することができません。一片の土地でも他人の介入を受けずに支配する権利は、農奴身分の人間はその身分にある限り永久に、もつことができなかったのです。

「権利能力のない状態」を想像してみれば、大変恐ろしいことだと感じると思います。「現に所有する量」がどれだけ少ないとしても、すべての人間に権利能力が平等に認められている現在の環境がいかに恵まれたものか、感じることができるはずです。

そして、この権利能力の平等という要求は、所有権の観念とともに生じたものだと私は思います。人権は「所有権」によって可能になったといえます。

2012年8月2日木曜日

「内部被曝」が問題なら、福島から「疎開」する必要はまったくないと思う


放射能と理性 なぜ「100ミリシーベルト」なのか

「内部被曝」が外部被曝に比べて特別に有害であるという科学的な根拠はなく、内部被曝は都市伝説といってもいいものです。

しかし、いま反原発派の宣伝を真に受けた全国の母親たちが心配しているのは「内部被曝」の影響だと思います。

チェルノブイリ事故後、数十人の子供が内部被曝によるとみられる甲状腺がん等に罹患しましたが、その原因は、自給自足的または地元産食料のみに依存する生活をしていた地域であったことと、ソ連政府が事故を隠したために高度に汚染した牛乳などの食品を子供が摂ってしまったことにあります。数年後以降に増加した慢性病は、ソ連崩壊に伴う経済困難と、強制移住のストレスなどから生じたものと見られています。現に、平均寿命の低下は放射能が降り注いだウクライナやベラルーシよりもロシアの方で激しかったのです。

これに対して、福島では、スーパーに並んでいる食品は全国から集まってきています。むしろ他地域よりも神経質になっていて、他県産食品を選好する傾向があるということです。

問題なのは校庭など子供が遊ぶ場所の塵埃に混じった放射性物質でしょうが、それも除染でなんとかなるでしょう。フクイチから空中に放散されている放射性物質が現在はほとんど問題にすべき量でないことは、空中線量を測ればわかるでしょう。

飯山一郎氏によれば、メルトダウンした燃料のカタマリはすでに地中数百メートルの深さに沈降しているという専門家の情報を得ているということです。仮にそうだとしたら、メルトダウンした燃料からこの先放出される放射能については恐れる必要がないということになるでしょう。放射能恐怖をさんざん煽ってきた飯山一郎氏が匿名の専門家から得たという情報です。

したがって、次のような意見は誤りだと思います。内部被曝の大半が食料と呼吸によるものであるなら、食料に関しては全国どこに行っても同じであり、呼吸に関しては除染でなんとでもなることです。避難生活のストレスのほうがはるかに癌などを引き起こす可能性が高いと思います。





放射能の害には閾値があるので、福島産食品を「混ぜて」希釈するということは悪いことではありません。日本人は「穢れ」意識からほんの僅かな放射性物質でさえ忌避しようとしますが、そのような「穢れ」意識は、福島県出身者差別に見られるように、差別意識の土台にあるものです。食品の放射性物質は、福島事故以前は計測していなかったはずであり、以前より高くなっているかどうかそもそもわからないのです。

私は、自分と意見が異なるからと言って、馬鹿だとか罵ったりはしませんが(まったくしないわけでもありませんが)、仮に馬鹿だとしても軽蔑すべきとは思わず、間違ったことを言っていても愛すべき人はいると思います。

しかし、福島は死の大地だとか、避難以外の選択はない、といった誤った宣伝を、この期に及んでするのは良くないと思います。

2012年8月1日水曜日

リバタリアンの「口に出せない夢」



内田樹という人が、よくわからないエッセイをたくさんブログに書いていますが、昨日の投稿にこんな話がありました。(全体的には、私はアタマが悪いので、何が言いたいのかよく理解できません)。

でも、これはあながち絵空事ではない。
地方自治をまるごと民営化したいというのは、リバタリアンの「口に出されない夢」だからである。
公共サービスというものを全部止めてしまう。
全部民営化する。
その代わり、もう税金も払わなくていい。
実際にそうすることの方が資産家たちにとっては、はるかに合理的である。
自分の土地を要塞化して、そこに私兵を配備して部外者の侵入を防ぎ、召使いや執事を侍らせて、「主人」として君臨できる人たちにとっては、「公共サービスが全部民営化された社会」は一種のパラダイスである。
なにしろ、民営化された警察や消防や医療を「私企業」として自己所有すれば、自力で犯罪に立ち向かえない市民や、自力では火を消せない市民や、自力では病気を治せない市民たちから個別サービスごとに恣意的に課金して、ほとんど無尽蔵の収益を上げることができるからである。
それがリバタリアンの「口に出せない夢」である(まれに“重慶王”簿煕来のように実行しようとする人間もいるが)。
「すべての公共サービスの民営化」は資産家たちにとっては「税金を払わずに済む」だけでなく、「税金を徴収する立場になる」チャンスをも意味するのである。

別に「口に出せない」夢でもなんでもないのでは?普通に資産家の理想でしょう。

「お前はこんな疚しいことを考えていて、後ろめたいに違いない。ニヤニヤ」と思っていたら、相手は確かにそれを考えていたが「疚しい」とも「後ろめたい」ともまったく思っていなかった、というオチみたいに見えます。

鷲の餌食にされる子羊は、鷲が自分たちみたいな可愛い子羊を餌食にすることの疚しさに悩んでくれるに違いないという期待を最後の望みにし、そう信じて死んでいくかも知れませんが、鷲の方ではまったくそんなことは思いがけもしない。旨いとしか思っていない。

「口に出せない夢」だろうなんて妄想が、そもそも不健全だと思いますが、これが自由に反対する人たちの気分を代表しているのかもしれません。

ネパールでは、事件に巻き込まれそうになったりして警察を呼ぶと、呼んだ人が警察にお金(手間賃)を払います。賄賂でもなんでもなく、(110番はありませんが緊急通報をした人は)堂々とお札を渡し、警官は衆目環視の中で普通に受け取っていました。

ここでは公権力は、普通に買われるものであり、利権という意味ではビジネスです。他のビジネスと違うのは、国(や地方政府)に独占されていて「競争がない」ことだけでしょう。

他の国でも、日本でも、ネパールほどは粗野ではないとしても、公権力は利権であり、(競争のない)ビジネスだと思います。

だから、公権力を買い取りたいということは、ごくふつうのことであり、実際にはどこでも行われています。この人は「公的」ということに、美的な幻想を抱きすぎなのではないかと思います。

また、公的サービスを廃止して自足的なものにし、警察も消防も自分で賄いたいという願望は、自由な市民の自然な気持ちだと思います。不健全な願望ではありません。

公的サービスを廃止するということは、それを市民が買い戻すということであり、そのサービスに需要がある限り民営で行うということです。

アメリカで市民が武装することが認められており武装の自由を拡大する要求が強いのも、理念的には、国や他人に頼らず自分で自分の身を守る自立した個人でありたいという思想から来ているはずです。

日本でも「戦国武将のような一国一城の主」になりたいと思って資産家を目指す人がいても、全然悪いことではないです。上の「口に出せない夢」とは要するに、誰にも干渉されない一国一城の主になりたいということであり、健全な欲求です。

一国一城の主になった上で、(キリシタン大名のように)領民を奴隷にして外国に売って蓄財するか、それとも城下に楽市楽座を開いて画期的なことを始めるかは、その殿様の選択ではありますが、そこが一番大切なところです。

現在の日本にはその一国一城が「一つ」「一系統」しかないのですが、やっていることは同じです。露骨さを控えているだけで、権力ビジネスでしかないでしょう。だいたい、税金をなぜとっていくのか。税金のとり方など本当にひどいもので、警察よりたちの悪い権力ではないでしょうか。人からタダで金をむしりとって堂々としているのは税務署だけです。

警察・防衛・徴税などの分野にも自由を保障するということは、現在、「一系統」しか存在していない「悪」(権力)を、誰もが参入できるものにし、「複数」にするということです

「交通の自由」さえ保障されていれば、領民は、「悪」(権力)を選択することができます。つまり、どの城下に住むか選択できます。その結果、殿様の間に競争が生まれます。

交通の自由を保障するということは、自由な市場と交易の自由を保障するということです。

自由な市場、交易の自由を裏付けする法的原理が、「財産権の不可侵」と「個人意思自治」です。

つまり、すべての個人に「財産権」と「個人意思自治」の原則が保障されていさえすれば、「領民を奴隷にして外国に売る」ことは許されないことになります。身体は個人の第一の財産です。

だから、交通の自由と財産権と個人意思自治の保障が前提にある限り、警察や徴税が民営化されること(当然分権化されること)は、そう悪いこととはいえません。

その前提を充足するためには、法の支配が必須であり、法原理機関としての裁判所が普遍的な存在として独立していることが必要です。

つまり、ちゃんと令状を取って適正に執行していることが重要なのであり、それをやる人間が警察官であろうとヤクザであろうと、(現実問題としても)どうでもいいことです。

税務署などは、令状も何もなしに勝手気ままにむちゃくちゃな税務調査をしてるのが現実です。「公権力」だから安心、私兵だったら危ないという根拠はありません。

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